主日礼拝説教 タイトル(下の説教題とリンクしています)

(1)「来てみなさい」(ヨハネによる福音書 1章35節~51節)

(2)「主の教会になるために」フィリピの信徒への手紙:1章3-11節)

(3)「近江草津伝道所開設30周年を迎えて」(フィリピの信徒への手紙:3章12~16節)

 

 

 

 主日礼拝説教(2019210日:定期総会の日)

 

      近江草津伝道所開設30周年を迎えて

           聖書:フィリピの信徒への手紙3章12~16節

                       田部 郁彦

                      (日本キリスト教会西都教会牧師 当伝道所応援教師)

      

 聖書:フィリピの信徒への手紙 3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。            

 今年度の祈祷課題は、フィリピの信徒への手紙3章12~16節から導かれたものであります。近江草津伝道所は、今から30年前に群れとしてのスタートを切ったのであります。そして、今も、ゴールを目指して走り続けています。しかしながら、未だゴールには到達していないのであります。未だ途上にあるのであります。しかしながら、ゴールをしっかりと見定めて、走り続けていませんと、途上あることすら曖昧になってしまうのであります。特に、走り続けてきた時間が長くなる時に、最初に目指した目標が霞んでしまい、そのゴールが見えなくなってしまい、時には、ゴールに達したような気にさえなってしまうのであります。そして、「わたしは既にそれを得た」「わたしは既に完全なものになってしまった」、そのようにゴールに到達し、レースは完了したと思ってしまう人さえ出てきてしまうのであります。そういたしますと、人は、それ以上に走ろうとしませんし、走り続けたりはしないものであります。その人は、実際に、目標、ゴールには到達していなくても、その人にとってのレースは、そこで終わってしまうのであります。そのようなことを考えますならば、私たちは実際に「到達したところに基づいて進む」ことが大切である、ということが理解できるのであります。未だ、目標に到達していないにもかかわらず、思い違いをして、到達したつもりになっていてはいけないのであります。もし私たちが、「到達したところに基づいて進む」ことをしないなら、その競技自体がそこで終わってしまうのであります。 

 パウロの関心事は、未だ目標に、ゴールには到達していないフィリピの教会に向けられております。地上の教会は、フィリピの教会にしろ、そして私たちの教会にいたしましても、未だ目標に、ゴールに到達はしてはおりません。その途上にある教会にパウロの関心は向けられております。パウロの願いは、途上にある地上の教会が誠実に神様の呼びかけに応答し、感謝して、与えられた福音宣教と教会形成の使命を果たし、そして目標目指して走り続けることなのであります。ところで、今私たちは、目標目指して、一体、何処を走っているのでありましょうか。それは「途上にある教会の時」を走っているのであります。十字架と復活の出来事から、そして主イエス。キリストが再び来てくださるその時の、その「中間の時」を走っているのであります。つまり十字架と復活の出来事と、終わりの時に神の国が完全な仕方で到来する、その「中間の時」をっているのであります。ある人が「教会はこの中間の時を神の都を仰ぎ望みつつ歩む信仰者の集団である」と言っております。私たちは、実際に、その「中間の時」にあって「到達したところに基づいて進む」ことが大切なのであります。近江草津伝道所も、地上にある神の民として、この30年、「中間の時」の中で、目標を目指して走ってまいりましたし、そして今も、主なる神様の呼びかけに応答しながら走り続けております。そして今、到達したところに、私たちは立っているのであります。キリストに捕らえられ、それから今に至まで召しに応え、使命を果たしながら走り続けてきた行程があって、そうして今このところに到達したのであります。確かに今はまだ目標に到達してはおりませんし、今、私たちの教会は不完全であります。本当に主の召しに十分にお応えできたとは言えません。しかし、パウロは申します、まだ到達はしていない、そしてなお不完全であるが、その今、「到達したところに基づいて進む」ことの大切さを教えてくれているのであります。もし私たちが、「到達したところに基づいて進む」ことをしないなら、その競技自体が途中で終わってしまう、中断してしまうのであります。

 

 主日礼拝説教

 

          「来て、見なさい」   田部郁彦牧師

                            (西都教会牧師、近江草津伝道所応援牧師)

 

聖書: 「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」            (ヨハネによる福音書 1章35節~51節)

 

    この箇所に記されている出来事はヨハネによる福音書だけしか伝えておりません。ある意味で後の弟子たちのあり方を示す象徴的な出来事であるとも言えます。弟子たちは、主イエスについて行き、その生活、十字架における死、復活を通して、主イエスが、どこに留まっているかを見、そして自らもまた主イエスのいるところに留まる者となったのであります。しかし、彼ら弟子たちは主イエス・キリストが見せてくださった、父なる神様との交わりの中に留まっただけではありません。そこからさらに、弟子たちは父なる神様との交わりへと招く、主キリストの招きの声となっていったのであります。「来なさい。そうすれば分かる」と。

 

 そのことをさらに良く示しておりますのは、それに続くもう一つの出来事であります。翌日、主イエスはフィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われました。フィリポについては、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であったと記されております。どうしてこんなことをわざわざ書く必要があったのでありましょうか。それは既に主イエスと出会ったアンデレたちと同郷人であることが、フィリポと主キリストとの出会いのきっかけとなった、ということを言いたかったかもしれません。41節には、「まず自分の兄弟シモンに会って」と書いてあります。ですから次がフィリポだったのかも知れません。

 

 そのようにして主イエスに出会ったフィリポは、ちょうどアンデレがしたように、ナタナエルに主イエスのことを伝えております。しかし、ナタナエルの反応は冷ややかでありました。彼はつぎのように言っております。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。もちろん彼は救い主を待ち望んではいなかった、というわけではなかったでありましょう。彼もイスラエルの伝統に生きる者であったに違いありません。ですから、当然、彼もまたメシアを待ち望んでいたと考えられます。しかしナタナエルにとってはナザレ出身ということがつまずきとなりました。なぜなら、ナザレはガリラヤの小さな町に過ぎなかったからです。そのような片田舎からメシアが出るわけがないということなのでありましょう。

 

 そんなナタナエルに対して、フィリポが口にした言葉、それが「来て、見なさい」という一言です。聞き覚えのある言葉であります。それもそのはず主イエスもこう言われました。「来なさい。そうすれば分かる」と。こちらでは「分かる」となっておりますが、これはもともと「見る」という言葉であります。「来て、見なさい」と主イエスも言っておられました。(ギリシア語の単語は違います。)確かにフィリポもまたここでナタナエルにとっての主キリストの招きの声となっていることが分かるのであります。

 

 フィリポはナタナエルに「来て、見なさい」と言いました。ですからナタナエルは見るために来ました。しかし、なんと近づいて来るナタナエルについて、主イエスは次のように言われました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」。ナタナエルは、主イエスが、あまりに唐突に自分のことをそのように語られたので、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と尋ねました。そうすると主イエスは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。ナタナエルは見に来たのに、実は見られていた。ナタナエルが主イエスを知る前に、ナタナエルは主イエスによって知られていたのでありました。これにはフィリポも驚いたに違いありません。彼は自分が主イエスのことを伝えたつもりでいたのに、伝えた相手は、既に、主イエスから知られていたというのでありますから驚くのも当然です。

 

 しかし、どうでしょうか、主イエス・キリストの招きの声となるとは、そういうことなのではないでしょうか。私たちが「来て、見なさい」と言って誰かを主イエスのもとに連れて行く時、そしてその人が主イエスと出会った時、主イエスは、既にその人を見ておられたという事実を目の当たりにすることになるのであります。

 伝道に携わる際に、自分はそんな主イエスの声に過ぎなかったのだということを色々な折りに気づかされるのであります。私たちは、この一年、本当に「来なさい、そうすれば分かるよ」と言っておられたのは、主イエス御自身なのだということを確信し、伝道のために、仕えて行きたいと願うものであります。

 ”

 

主日礼拝説教(2018211日:定期総会の日)

 

                「主の教会になるために」

                      聖書:フィリピの信徒への手紙:1章3-11節

                                          説教者:田部 郁彦

                                       (日本キリスト教会西都教会牧師)

                                       (近江草津伝道所応援教師) 

フィリピの信徒への手紙1章3~11節

1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、

1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。

1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。 

1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

1:7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。

1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。

1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、

1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、

1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。(『新共同訳聖書』より)

 

 私たちの教会の内側の問題だけにでも限定して、福音宣教、伝道、そして教会形成など、信仰の継承の問題、そのような問題が、本当に、私たちの教会の肢一人一人の切実な問題として祈りの課題となっているでありましょうか。これは本当に神様の助けなしには解決の可能性などないような切実な問題であるというような受け止め方が出来ているでありましょうか。そのような祈りの課題が一人一人の日々の密室での祈りの課題になっているでありましょうか。また公同の祈りの課題になっているでありましょうか。

 「最近、私は祈ることが少なくなってきた」という方はいませんか。ある意味で、満ち足りている人は祈りません。その必要を感じないからです。もう十分だからです。それならば、私たちには、本当に欠けているもの、不足しているもの、神様にお願いしなくてはならないものは、はたしてないのでしょうか。いえあるはずです。にもかかわらず祈らないのではないでしょうか。自分の本当の心の底からの祈り、そのような祈りを、毎日の生活のどこかで出来たらどれほどうれしいことでしょう。

 パウロは、フィリピの教会の中に、きっと、あったであろう神様の助けなしには解決の可能性のない問題を見据えて祈っています。しかし、そのような困難な問題を担いながら祈っているパウロでありましたが、彼は悲壮な思いに支配されながら祈っていたのでしょうか。いいえ、それは違います。彼は何と、「いつも喜びをもって祈っています」というのであります。私たち自身、祈りの課題が困難であればあるほど、悲壮な思いに駆られてしまい、祈ることが億劫になってしまうなどということがあるのではないでしょうか。そして、実際に、祈っているときにも、暗く、重く、悲壮感を漂わせながら祈っているなどということがあるのではないでしょうか。しかし、パウロは違いました。パウロは、祈る自分がおかれている状況が如何に困難であっても、そしてまた、その祈りの課題として与えられていることが如何に困難であっても、そこで、決して、落胆したり、悲壮感を漂わせながら祈るというようなことはありませんでした。

 それでは、どうしてパウロは、そのように「いつも喜びをもって祈る」ことができたのでありましょうか。それは、パウロが、今、祈りをささげている相手である神様が、どういうお方であるのかを知っていたからであります。確信を持って、その神様を信頼することが出来たからにほかなりません。だからであります。そのような神様の恵みを、パウロは繰り返し経験させられてきたからではないでしょうか。たとえば自分自身の回心の経験を通して、また、伝道旅行の経験を通して、パウロは、不思議な仕方で、神様が人をとらえてくださることを、そして信仰者を造り出してくださることを経験させられていたからではないでしょうか。つまりパウロはキリストの福音を携え、人々に宣べ伝えていくときに、神様が人々の中に信仰を造り出しておられることを目の当たりにしたからではないでしょうか。だから、パウロはいつも喜びをもって祈ることができたのではないでしょうか。

 今、パウロの祈りの相手である神様は、無から有を造ることがおできになる方であります。神様は信仰者を無からお作りになる方であります。そのような神様を信じているなら、どうして、暗く、重く、悲壮な思いに支配されながら祈ることがあるでしょうか。もし、死に勝利して、よみがえられた主イエス・キリストを信じているならば、私たちは、「いつも喜びをもって祈る」ことが可能とされているのではないでしょうか。

 そして、もう一言付け加えるならば、今、パウロがフィリピの教会の人たちのことを覚え、「いつも喜びをもって祈る」ことができたのには、もう一つの理由があります。それは、まさに、また、「あなたがたが(フィリピの教会の人たちが)最初の日から今日まで、福音にあずかって

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いるから」であります。フィリピの教会の人たちがどんなに困難なことがあろうとも、決して、福音から離れることなく、あの最初の日から、ずっと今日に至るまで福音に与っていたからであります。だからであります。それは、パウロに、どれだけ大きな喜びをもたらすこととなったでありましょうか。パウロは本当にそのことを覚え、心から喜んで、彼らのことを祈りの内に覚えることができたことでありましょう。

  この年、近江草津伝道所に属する私たちも、神様の助けなしには解決の可能性などないような切実な問題を、祈りの課題としているような時でも、神様を信頼し、キリストの福音に聞き従うことによって、決して、暗く、重く、悲壮な思いに支配されることなく「いつも喜びをもって祈」っていけるようにしていきたいと思います。